文質彬彬(11) ホルン協奏曲〈全曲〉
〜ナチュラル・ホルンによる演奏12選 (その1)「ジュースマイヤー版」といって多くの方が想起されるのは、おそらく《レクイエム》K.626でしょうね。しかし、もう一曲、たいへんに有名なジュースマイヤー版が存在します。既知の方にはいまさらですけれども、ホルン協奏曲の「旧全集」第1番K.412+514(386b)ですね。正確にいえば、2楽章制の第1楽章K.412ではなく、終楽章のロンドK.514の方です。
モーツァルトの許多ある楽曲中、ここ数十年で劇的な展開、あるいは転換を見せつけてくれたのが断片を含めたこのホルン協奏曲群です。1980年を前後して、自筆譜の再発見や影印版刊行が続き、87年には「新モーツァルト全集」の当該巻(V/14/5:第5篇第14作品群第5巻)がフランツ・ギークリング校訂により刊行、同年ザルツブルクにて大規模なシンポジウムも開催され、90年初頭にはロンドK.371の提示部が発見されるなど、研究者のみならず、ホルン奏者にとっても安穏としていられない状況が出現したのです。
「旧全集」において、作曲順に第1番から第4番まで振られた番号は、まったく見当外れであって、本来は
第2番 → 第4番 → 第3番 → 第1番の成立順であることが明らかとなりました。殊に第1番は、従来のケッヘルらによる1782年作曲との定説が、アラン・タイソンによる用紙研究、ヴォルフガング・プラートによる筆跡研究によって破られ、モーツァルト最晩年の作曲にかかり、それもおそらく緩徐楽章となったであろう中間楽章がなく、終楽章が未完に終わった理由こそが、実は作曲者自身の夭逝にあり、かのクラリネット協奏曲K.622の後ろに位置する、絶筆《レクイエム》同様のトルソーであったことが決定的になったのです。
以下、今日推定される作曲年代順に、断片作品とともに列挙します。
断 片:Hornkonzert Es-Dur KV 370b(Wien, 21.März 1781)
断 片:Hornkonzert Es-Dur KV371(Wien, 21.März 1781)
旧第2番:Hornkonzert Es-Dur KV417(Wien, 27 Mai 1783)
旧第4番:Hornkonzert Es-Dur KV495(Wien, 26 Juni 1786)
断 片:Hornkonzert Es Dur KV494a(Wien, Sommer 1786)
旧第3番:Hornkonzert Es-Dur KV447(Wien, 1787)
旧第1番:Hornkonzert D-Dur KV386b[412+514](Wien, 1791)これまで、K.412こそはやはり「第1番」だけあって簡明な曲だなあ、なぞと親しみをもって聴いていた曲想は、まったくの先入観でそう感じられていただけなのであって、ほんとうはモーツァルト晩年特有の清澄かつ精妙なメロディーとオーケストレーションとの賜物であったわけですね(人間の耳なんてイイカゲンなものですな)。
さらに、終楽章ロンドの自筆草稿は、奏者ロイトゲープを揶揄する罵詈雑言で埋め尽くされているにも関わらず、否、だからこそか、独奏パート以外は未完のままモーツァルトは逝ってしまいます。しかし、「幸いにも」このロンドには別の「自筆譜」(サンクトペテルブルクにある)、つまりK.514が知られており、オーケストレーションの完備したこちらの稿を従来第2楽章として演奏してきたのです。
ところが、これまた筆跡・用紙研究によって、この別稿「自筆譜」は、モーツァルト晩年の弟子、そう、あの《レクイエム》を補筆完成させたフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー(Franz Xaver Süssmayer,1766-1803)の手になるものと鑑定され、それはどちらかといえば、モーツァルトのロンド主題によるジュースマイヤー作曲の楽章といえる代物だったのです。
この「自筆譜」にはたいへん奇妙な点があって、これまで問題視されてきていました。それは、
Vienna Venerdi Santo Li 6 Aprile 797.(ヴィーン 聖金曜日 1797年4月6日)なる完成日付が記載されていることです。もちろんモーツァルトは1791年12月5日に亡くなっていますから、あり得ない日付となります。これは、モーツァルトの“いつもの”冗談として容易に片付けられました(学者なんてイイカゲンなものですな)。
しかし、これまた用紙・筆跡研究により、これを記入したのもジュースマイヤー自身、「1797年」と読める年は、ジュースマイヤーの書き癖から「1792年」であると結論されたのです。ジュースマイヤーは、師匠の死後、ロンド主題以外はその遺された草稿を顧慮することなく作曲を開始し、半年をかけずに完成したことになります。ジュースマイヤー作曲の「K.514」には、途中(67〜79小節)、グレゴリオ聖歌「預言者エレミアの哀歌」の旋律が引用されていますが、ここに恩師追悼の含意があったと読み取ることも可能といわれています。
かくして、ホルン協奏曲旧全集第1番は、モーツァルト最晩年、未完かつ最後の協奏曲に位置づけられ、終楽章にK.514のロンドを伴って演奏する場合は、一種の「ジュースマイヤー版」ということになったわけですね。
しかし、《レクイエム》に限らずジュースマイヤー版の評判は芳しからず、判明したとたん、それじゃあ何とかモーツァルト自身の未完草稿をもって補筆完成させてやろう、という動きが活溌となったのであります。亭主架蔵の音盤には、カール・マルグエール版、ヘルマン・ユーリセン版、ジョン・ハンフリーズ版、ロバート・レヴィン版、トーステン・ヨハン版といった補筆版があります(詳しくは後述)。
以上のように、モーツァルトのホルン協奏曲を取り巻く情況が激変するのと時を同じくして、ピリオド楽器によるモーツァルト演奏が隆盛したことは、こうした流れを敏感に受けとめ、演奏・録音に活かしてゆこうという動きに直結したようです。1973年のヘルマン・バウマン盤(アーノンクール指揮、TELDEC)という記念碑的録音のあと、容易に現れなかったナチュラル・ホルンによるコンチェルト録音は、80年代から徐々に活況を呈してきます。
そうして陸続と誕生したナチュラル・ホルンによる協奏曲録音には、最新の研究成果、あるいは新補筆版が採用されていったのです。それは、問題の多かった旧第1番や断片作品に限らず、たとえば異稿の多い旧第4番K.495でも試みられています。
今回の《文質彬彬》では、モーツァルトのホルン協奏曲を数回にわたり取り上げますが、最後におこなう推薦音盤紹介については、ナチュラル・ホルンによる演奏に限定したいと思います。近年、モダン・ホルンによるすばらしい録音が数多く出始めていて、それらも魅力的なのですが、亭主架蔵のホルン協奏曲の音盤50種以上を聴き返す余裕が現在ないため、十数種類で済み、かつホルン協奏曲の魅力を全開させ得るナチュラル・ホルンに限定した次第です。むろん必要に応じて研究成果が盛り込まれたモダン・ホルンの音盤に触れることはあります。
具体的な推薦盤紹介は後章に譲り、今回は前説としてモーツァルトのホルン協奏曲の周辺について、また主役のナチュラル・ホルンについておさらいしておきましょう。
ヴォルフガンク・アマデ・モーツァルト、驢馬、牡牛、阿呆のライトゲープを憐れんで。
ウィーン、1783年5月27日これは、完成された最初のコンチェルトであるK.417(旧第2番)に添えられた献辞(?)です。
24歳も年長のイグナーツ・ロイトゲープ(Joseph Ignaz Leutgeb,1735-1811、モーツァルトはLeitgebライトゲープと呼んでいた)にむかってとんだ言い草のように感じますが、両者は気の置けない仲だったようで、ザルツブルク時代、ウィーン時代ともに最後までかたい友情で結ばれていました。少なくともホルン協奏曲4曲とホルン五重奏曲K.407は、みなこのロイトゲープのために作曲されたのですから、その信頼の証でもあり、また彼の高度な技量も推し量れようというものですね。まさしく“知音”であったのです。妻コンスタンツェがバーデン温泉に療養にいってしまったため、ひとり残された晩年のモーツァルトに、何くれとなく世話を焼いてくれたのもほかならぬロイトゲープ夫妻でありました。
ロイトゲープは、1763年にはザルツブルク宮廷楽団に所属していたとされており、当時既にモーツァルトの父レーオポルトはそこのヴァイオリン奏者兼副楽長、少年モーツァルトも演奏に一役かっていたのですから、旅の空が長い一家であったとはいえ、当然旧知の間柄でした。
のち1781年、モーツァルトは大司教コロレドと派手に決別し、単身ウィーンに乗り込むわけですが、実は既にロイトゲープはウィーンに移住しており、なんとチーズ屋を営みながらフリーランスにホルンを吹き続けていたのです。それは1777年以降のことであり、モーツァルトが死ぬ翌年1792年まで演奏活動をおこなっていたようです。
彼は経営者としての手腕を発揮しつつも、ホルンの名手としても高い評価を受けており、パリやフランクフルトといった音楽都市で演奏を披露していました。けっして憐憫の情を催されねばならない“阿呆のライトゲープ”ではなかったのです。
それに、演奏の難しいナチュラル・ホルンを自在に操った彼の技量、また残された協奏曲からもわかるごとくに、カンタービレを能くしたとされるその音楽性に敬意を表さねばなりません。当時、ホルン奏者は他の楽器奏者よりも高給だった、などという話が伝わっていますが、さほどに難度の高い管楽器だったのです。

Louis Carrogis Carmontelle作「野外での四重奏」
中央に管を巻いただけのナチュラル・ホルンがみえる

《音楽の冗談》K.522初版楽譜扉絵
左側に二人のナチュラル・ホルン奏者
モダンのホルン、つまりヴァルヴ・ホルンが一般化するのは1800年代も終盤に差しかかった頃であり、当然モーツァルトが生きた時代は無弁のナチュラル・ホルンでありました。基本構造は至極簡単で、朝顔(ベル)から伸びる長い管をグルッと巻いただけですから、唇と息を加減しつつ普通に出せる音階は高音の自然倍音列に限られるわけです(クラリーノ奏法)。
そこで発明されたのが、ゲシュトップ(ハンド・ストッピング)奏法です。これは、右手をベルに差し込み、その塞ぐ加減によって管長を擬似的に操作する奏法であり、これによって自然倍音のスケールに含まれない音を出したり、音程を補正したりします。結果、クラリーノ奏法では不可能であった中低音域でもメロディーが吹けるようになったのです。

ナチュラル・ホルンを持つウルリッヒ・ヒュブナー
(インマゼール指揮のZIGZAG盤ノートより)
モダン・ホルンでは音質的な差異が極力抑えられている普通のメロディーも、このゲシュトップ奏法を駆使してナチュラル・ホルンで演奏すると、自然倍音以外の音が、かなり異質な音色(金属的な音や鼻にかかった音)となって混淆することになり、それが不安定で不均質ともいえる反面、この楽器最大の味、魅力ともなるわけで、作曲家、殊にモーツァルトのような楽器の特性を最大限活かしきる音楽家がこの個性を存分に引き出さないわけはないのです。実際、ナチュラル・ホルンによる演奏を聴けば、そのことがたちどころに諒解されるでしょう。
たとえば、K.417(旧第2番)第3楽章の短調部分には、ホルンが演奏困難な閉塞音に対し、第1ヴァイオリンが“からかい”の音型を毎回違う高さの音で奏でるというモーツァルトの諧謔が垣間見られるのですが、これなどはナチュラル・ホルンで吹いて、あるいは聴いて初めて得心し楽しめるというものです。

ナチュラル・ホルンを演奏するアントニー・ハルステッド
ゲシュトップ奏法の様子と替管構造が見て取れる
(ロイ・グッドマン指揮のNIMBUS盤ノートより)
なお、ナチュラル・ホルンは管長によって音高が決まるので、本来は調が変われば楽器自体を交換せねばなりませんでした。しかし、18世紀に替管、つまり管の途中から抜き差し可能な部位を作り、管長を適宜変える方法が編みだされ、のち簡便化をはかったインヴェンツィオンズ・ホルンが発明されるに及び、ホルンの役割は飛躍的な発展をとげるのです。
これを要するに、モーツァルトのホルン協奏曲を語り、聴くにあたっては、ナチュラル・ホルン抜きには考えられない、ということになります。
そろそろ紙幅も尽きてまいりました。今回はここらでいったん閉じ、次回は各楽曲のお話にいたしましょう。
(つづく)
テーマ:クラシック - ジャンル:音楽
- 2008/12/17(水) 20:37:36|
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