ギュンター・ヴァントのモーツァルト(その2) 肅肅如松下風、高而徐引。 肅肅として松下の風、高くしておもむろに引くがごとし。
巌巌若孤松之独立。 巌巌として孤松の独立するがごとし。
これらは、“竹林の七賢“のひとり魏の嵆康(223-262)の風采に秀でたさまを同時代人が自然の譬喩をもって評したものです(『世説新語』容止篇)。
ギュンター・ヴァントが遺した半世紀も前の録音群を聴き返しながら、如上の評語が何度も思いおこされました。
ヴァント生前からCD化が待望されていたギュルツェニヒ管弦楽団との一連の録音が、死の翌年、ライセンスを受けた英TESTAMENTから次々と発売。モーツァルトにあっては、シンフォニーを中心に全11曲が含まれ、いずれも丁寧な復刻により優秀な音質で名演がよみがえりました。1954年から1965年にわたる録音で、セレナード2曲を除いてすべてステレオです。亭主個人としては、後年のBMGによる最新デジタル録音よりもずっと良好な音質であり、ヴァントの美点を存分に伝えていると思います。
50年代から60年代初頭といえば、モーツァルト生誕200年(1956)を挟み、かつステレオ録音が本格化した時代であって、往年の名演が陸続生まれた頃ですよね。
ワルター(コロンビア響)、セル(クリーヴランド管)、クレンペラー(フィルハーモニア管)、ベーム(ベルリン・フィル)、ヨッフム(アムステルダム・コンセルトヘボウ管)等々のモーツァルト・シンフォニー録音が誕生しました。
これらは、近年のピリオド楽器による演奏が主流となる中にあっても(否、だからこそ)、価値を失わない定盤として、LP→CDと長年にわたり各国で再発され続けてきました。しかし、取り残されてしまった幻の名演もたくさんあるのであって、それらはどうやら演奏云々ではなく、原盤所有者のマイナー性・ローカル性に起因しているように思われるのです。
TESTAMENT復刻によるこの一連の録音は、フランス・ユニバーサル傘下のミュジディスク原盤ですが、もともとはクラブ・フランセ・デュ・ディスク(Club Français du Disque)が制作したものです(モーツァルト11曲を含む全43曲が録音された)。この会社は、フランス国内の「会員制」の書籍・レコード販売会社であり、予約した定期購買の顧客にむけて商品を届けるわけですから、レコード店の棚にLPなりが置かれることはなかったのですね。ヴァント―ギュルツェニヒ管のレコードは、初めからコロンビアやEMIといった大手の国際的商業ベースに乗らなかったのです。
もちろん60年代の終わりに権利が、これまた大手とはいえない仏ミュジディスク社に譲渡された後には、一般にもLPが発売されましたが、とくに普及しないまま、ヴァント生前には結局CD化もされずにあったのです。このことは、(まったくの推測ですが)ヴァントの意向によるものではない、と思います。というのもヴァントは晩年のインタビューで、この古い録音群について次のように発言しているからです。少々長文の引用になります…
この共同作業は全体として、私にとってとても素晴らしい仕事でしたし、芸術的な成果も抜群に満足のいくものでした。今でも私は、これらの録音を――現在の私の演奏とも、それにもちろん現代のデジタル技術とも違うのですが――素直に聴けますし、恥ずかしく思うこともありません。……とにかく、何年後になっても点検されるとすれば、演奏技術面で完璧であるだけでなく、とりわけ聴いて価値のあるものを作るようにしないといけないと考えていました。偶然的なものではなくまともなものを、瞬間的な思いつきの記録などではなく(「芸術家の気まぐれ」などお話になりません)、何か意味あるもの、あとになっても落ち着いて向き合えるようなものを作りたいと望んだのです。……私がオーケストラの演奏において、コンサートでもレコードでも同じように正しさと完璧さを最も重視していることに気がついてほしいのです。これらのレコードは何年後になっても聴けるものでありたいし、いつまでも価値あるものであってほしいのです。今日これらの古い録音をもう一度売り出したとしても、人々はすぐに、指揮者が、新しいCDに登場しているのと同じ人物であることに、気づかれると思います。 (ヴォルフガング・ザイフェルト:根岸一美訳『ギュンター・ヴァント―音楽への孤高の奉仕と不断の闘い―』、p.220-221、音楽之友社、2002)
その昔、亭主がLPで聞き流して以来、どれくらい経ったでしょう。今回、一連のTESTAMENT復刻盤4枚を聴き返して、上掲の言葉の前に深く反省いたしました。
音楽評論家でピリオド楽器によるモーツァルト演奏に造詣の深い安田和信氏が、だいぶ以前、あるライナー・ノート(アーノンクール関係)で、
90年代に入ると、歴史的楽器によるモーツァルト演奏にも我々の耳は馴染んできた。とくに録音の多い後期の交響曲では、新しい録音が現れても、「耳から鱗が落ちる」ような新鮮な体験というものが味わいにくくなったように思われる。かえって「歴史的録音」のほうにハッとさせられることが多い。と書いておられましたが、まさしく亭主の最近の心境と懸隔ない意見であります。この復刻盤は、今となってはやはり一般的なものではなく、皆さんにお薦めする、といった類ではありませんが、亭主のようなものには、非常に新鮮な体験でありました(だいぶ以前一度聞いているはずなのに)。
さて、復刻盤の詳細は以下のようになっています。寸評とともに…
TESTAMENT復刻:ギュンター・ヴァント―ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のモーツァルト
原盤:クラブ・フランセ・デュ・ディスク(Club Français du Disque)→ミュジディスク(Musidisc)
■TESTAMENT:SBT1302 *MONO
セレナード第7番 K.250《ハフナー》 [1954]
セレナード第9番 K.320《ポストホルン》5楽章版 [1959]《ハフナー・セレナード》は、ヴァント初の録音とされるもの(後述あり)。両曲ともにバイエルン放送響、北ドイツ放送響との録音もあるので、3種ずつ音盤があることになります。こんな指揮者はおそらく唯一でしょう。演奏会では頻繁に取り上げていたようなので、音源としてはなお多く残されているものと思われます。
上掲盤の演奏は、少々神経質な演奏ですね。曲が曲だけに、少し辛口に過ぎる印象です。亭主としては、「ギュンター・ヴァントのモーツァルト(1)」で紹介したバイエルン放送響とのライヴ録音が最高だと思います。死去前年の「ハンブルク・ライヴ2001」の《ポストホルン・セレナード》も燃えておりますがね(90歳老人の演奏とは信じられない!)。

北ドイツ放送響盤《ポストホルン・セレナード》
「ハンブルク・ライヴ2001」所収

■TESTAMENT:SBT1303 *STEREO
セレナード第13番 K.525
《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》 [1957]
交響曲第33番 K.319 [1957]
交響曲第34番 K.338 [1965]ふだん滅多に聴かなくなっている《アイネ・クライネ》が楽しめました。大仰なところのない丁寧な演奏です。終楽章コーダでもバスをゴリゴリと鳴らしたりせず、ほどよいバランスで響かせます。その昔、吉田秀和がジョージ・セルの《アイネ・クライネ》のレコードを期待もせずにかけて覚えず感動した、という相変わらずの“秀和口調”文章を思い出しました。
しかし、実は、このレコードで、ハッとするのは、この面(《ポストホルン》)ではなくて、もう一方のセレナーデ(《アイネ・クライネ》)の方である。この方はお互い、いやになるほど散々にきかされてきたものだし、私など、もうレコードに入っていたって、ほとんどかけたことはない。だが、《ポストホルン》が、あんまりモーツァルトらしくない演奏であり、――というより――少しもモーツァルトらしくやろうとしていない演奏なので、では、この商標みたいにやたら使われてきた、あまりにモーツァルト臭いモーツァルトの音楽を、どうやるのか知らと、私も少々好奇心をそそられてかけてみた。 ところが、これが良いのである。ちっとも、通俗的でなくて、甘ったるくなくて、むしろ必要にして十分なことを、しかしまた、はしのはしまでていねいにはっきりと演奏しているだけで、ほかのことは何もしないのに、毅然として雄々しく、高雅にして、時に荘重でさえある音楽となってきこえてくるのである。 (『レコードのモーツァルト』、中公文庫、1980、上掲文章は、1972年『ステレオ』誌初掲載)
以上の長い引用が、吉田をして「乾燥したロココの味わい」と言わしめたセルの《アイネ・クライネ》評です。これは、ヴァントの《アイネ・クライネ》演奏にもほぼそのままあてはまる、といっていいと思います。もっとも「乾燥した」=「干からびた」、ではないことは当然ですが、セル―クリーヴランド管よりもずっと渋い、やはりドイツの響きなので、亭主としては、「燻(いぶ)されたロココの味わい」とでも呼んでおきましょう。
※長くなったので、続きは(3)にて……(ひと休み) 【つづく】テーマ:クラシック - ジャンル:音楽
- 2008/05/18(日) 21:10:15|
- 指揮者
-
-