寺神戸亮とモーツァルト(2)
: 独奏者としての寺神戸亮とモーツァルト 【その壱】 ※申し訳ありませんが、この(2)は少々長くなりそうなので、
【その壱】【その弐】に分割上網いたします。以下、敬称略。寺神戸独奏のモーツァルトとして挙げられるのは、何といっても師シギスヴァルト・クイケンと弾き分けたヴァイオリン協奏曲でしょう。3年かけてDENON・Aliareに録音された全集は以下のようになっております。オーケストラはいずれも手勢ラ・プティット・バンド。
■DENON:COCQ84188-90 (1995〜1997年)
*上記CD番号は、3枚組再発全集盤。 Disc.1 (1997年録音、ワルシャワ)
・ヴァイオリン協奏曲第1番 K.207 †
・ヴァイオリン協奏曲第2番 K.211 ‡
・2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ K.190 ‡†
Disc.2 (1995年録音、オランダ)
・ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364 †‡
・ヴァイオリン協奏曲第3番 K.216 ‡
Disc.3 (1996年録音、ドイツ)
・ヴァイオリン協奏曲第5番 K.219《トルコ風》 †
・ヴァイオリン協奏曲第4番 K.218 ‡ 寺神戸亮(ヴァイオリン) †独奏ヴァイオリン
使用楽器:Giovanni Grancino, Milano, ca.1691
シギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン、ヴィオラ、指揮) ‡独奏ヴァイオリン・ヴィオラ
使用楽器:Giovanni Grancino, Milano, ca.1700 *Disc.2での使用楽器は両者明記無し。
最も新しいDisc.1は、録音きわめて優秀。第1番が寺神戸のソロ担当です。クイケン―ラ・プティットの充実した序奏(チェンバロ入り)ののち、のびやかなソロが魅力的に響きます。カデンツァも佳いですね。第2楽章は、ふだん聞き流してしまいそうな楽章ですが、実はかなりのカンタービレ。寺神戸は十分な歌心でもって旋律を奏でます。このあたり、モダンに精通している長所が出ているのでしょうね。出色の演奏だと思います。一転快活なプレスト終楽章。けっこう技巧的なパッセージが続くのですが、テクニックがあるので、安心して聴けます。

Disc.1初出盤ジャケット
第2番はクイケンがソロ担当。寺神戸との音色の違いが分かって面白いですね。師は、寺神戸よりも線の細い渋い音色。この曲は、その独特のリズムとあいまって亭主の大好きな曲なのですが、寺神戸の演奏でも聴いてみたいと思いました。
最後に、ふだん聴く機会(特に実演では)の少ないコンチェルトーネ K.190が入っています。他に類似曲のない不思議な楽曲なのですが、たいへん楽しめました。さすがに終楽章メヌエットは、現代人には不向きな曲調だろうなあ、と思いますがね。こういう曲は、何か特定の場所、特定の機会、特定の人間がそろった空間で演奏されて、初めて意味をもつ、真価が発揮できる、あるいは一度限り発揮できた曲なのかもしれませんね。モーツァルトの楽曲の中にはこの手の作品がけっこうあります。
最初の録音となったDisc.2(初出:COCO78837)は、「1996年レコード・アカデミー賞」(『レコード芸術』誌)受賞盤。第3番は、クイケンのソロ。協奏交響曲がクイケン―寺神戸の師弟競演となるわけです。寺神戸がヴァイオリン、クイケンがヴィオラとなっています。
Disc.3は、5番《トルコ風》が寺神戸のソロ担当。クイケンと比べて歌い回しがより(誤解を恐れずにあえていえば)ロマンチックなのは、序奏部分、アインガングのアダージョを一聴すれば明らか。音色もずっと艶やかですね。奏でる音色の美しさや技術でいえば、師を凌駕した“出藍の誉れ”と申してよいでしょう。緩徐楽章でも潤いに欠けることはありません。
バロック・ヴァイオリンの世界もここ十数年でずいぶんと変わりました。単純にテクニックでいえば、クイケンなんてとうにみんなに追い越されているのでしょう。弟子も他の奏者もわかっているし、聴衆もわかっている、なにより当の本人が一番わかっている、に違いないですよね。
それでも、彼、あるいは兄弟としての彼らがいなければ、自分たちもここにいない、ということは痛いほど感じているでしょうし、モーツァルトを演奏している人ならば容易にわかるように、モーツァルト自身が忌み嫌っていた「機械屋」「ハッタリ屋」と対極にいる、いようとする彼の存在は、やはり今でも大きいのでしょう。
以上、ごく簡単に紹介いたしましたが、亭主としましては1・2・5番を推薦したいと思います。なお、7月7日、“ボレアード〜LIVE!”としてコジマ録音より、寺神戸亮の独奏・指揮によるヴァイオリン協奏曲第1番とセレナード第4番 K.203が発売されるそうです。
それにしても、先ごろ来日したクイケン―ラ・プティット・バンドは、72年に結成されて以来、今日まで活溌に演奏、録音活動を繰り広げています。さらには各音楽祭においてオペラも盛んに演奏し、録音しております(まあ、結成のきっかけがレオンハルトによるリュリのオペラ録音なのだから当然ですが)。
実は、以前亭主はこの団体はあまり好きではなかったのですね。今よりずっと若い頃ですが、実演で聴いたときも、さほど感銘は受けませんでした(声楽作品はとてもよかったですが)。
モーツァルトに関していえば、たとえばアーノンクールらのように、「当時の聴衆の耳にはこう響いていたんだ!」式の演奏に相違して、何となくヤワな印象を抱いてしまい、「まあ、実際はそんな風に鳴らされていたんだろうけどねえ」程度にあしらってしまっていたのだと思います。
モーツァルトの手紙等の資料を丹念に読めば容易に想像できることですが、モーツァルトが仮に両者、すなわちアーノンクールとクイケンの演奏を聴くことがあったとしたら、たぶん、おそらく、ぜったいに前者を強く拒絶し、後者を高く評価すると思いますね。たとえ、おのが作品にアーノンクールが提示してみせたような要素がふんだんに内在しているとわかっていたとしても、です。
もちろん、現実にはあり得ない架空のお話ですし、それが正鵠を射ていたとしても、アーノンクールのモーツァルト演奏の価値がいささかも減じるものではないことは、いうまでもありません。亭主も長年(かってに)尊敬しておりますし、実演に何度も接して、そのすばらしさはわかっておりますので。
クイケン―ラ・プティット・バンド、あるいはクイケン弦楽四重奏団、あるいはクイケン個人の演奏は、亭主の専門に引きつけて申せば、これすべて「中庸」なのです。もちろん、現代の辞書的な「どちらにも偏らず、中正なこと」程度の意味ではありません。
ときに「どっちつかず、中途半端…」といった悪いニュアンスさえも生じてしまう「中庸」なる語ですが、この出典は『論語』雍也篇であります。
中庸之為徳也、其至矣乎。民鮮久矣。 中庸の徳たるや、それ至れるかな。民にすくなきこと久し。
数千年前、すでに人間には少なくなっていたという「中庸」こそが最上の徳、と孔子に言わしめたほどのもの。もちろん、同書の「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし ― やり過ぎは未達成と同じ」(先進篇)と相補って理解すべきですが、そう一朝一夕に体得できる徳ではないようです。同書の子路篇に次のようにあります。
不得中行而与之、必也狂狷乎。狂者進取、狷者有所不為也。 中行を得て之にくみせずんば、必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざるところあり。
「中行」は「中庸」と同義。つまり…
最上の徳である「中庸」なんてものには、現実には滅多にお目にかかれんのじゃ。
さすれば「狂」か「狷」だな。狂なるものには「進取の精神」があふれ、
狷なるものには「潔癖の精神」がやどっておるから。ケモノ偏の付く生々しくも激しい「狂狷」と、一見やさしくおとなしそうな「中庸」とは、実は紙一重の存在だったのですね。う〜ん…真の中庸畏るべし。
ということで、アーノンクールもクイケンも、ともにモーツァルトの核心に迫っているのだ、といったん無理矢理まとめておきます。そもそもモーツァルトの音楽は、「中庸」と「狂狷」との絶妙なバランスの上に成立しているのかもしれませんね。だいぶ筆が走りましたので軌道修正
……【その弐】につづく……テーマ:クラシック - ジャンル:音楽
- 2008/06/08(日) 19:18:21|
- オムニバス
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