モーツァルト生誕250年によせて ―聖人は終に大を為さず、故に能く其の大を成す― tristesse allante(疾走する悲しみ)なぞと小林秀雄がその『モオツァルト』(1946、以下西暦)で深刻ぶったころ、インテリ文人かっこうの餌食だったモーツァルトも、今や日本ではその音楽で癒され、アタマまでよくなり、果ては美酒まで醸すけっこうオシャレな作曲家らしい。
没後200年、1991年の狂乱ほどにはならないことを祈りつつ迎えたこの生誕250年、毎年がモーツァルト・イヤー、毎日がモーツァルト・デイのモーツァルティアンには、それでもかなり鬱陶しい。
E.T.A.ホフマンよろしく「霊界の深淵へと我々を導くのはモーツァルトである」とまで心する必要もないけれど、にしてもだ、純真な酵母菌ならいざ知らず、モーツァルトを聴いて癒される、なんて人間はどうかしているんじゃあないか。
「あまりにその音楽の流れが心地よいので、すべての音楽のなかでもっとも知的で情感豊かで緊張感を伴った過激な音楽を書き続けたことさえ、気に留められなくなっている」(鈴木淳史『クラシック悪魔の辞典』)との言あり。
もっともモーツァルト自身が手紙(1782,11,28父宛)で自らの音楽を評して、素人も喜び玄人も唸らせるようにしています、と悖反氷解をさらりと告白しているように、素直に古典派的主旋律のみを追っていけば、さすがに何とも美しい。それを“癒し”と捉えれば、まったくそのとおり。
しかし、実は雄弁に語っているモーツァルトの内声部に気づいたとき、あるいはごく少数ながらそこに気づいた音楽家の演奏に出会ったときからみんなモーツァルト的玄人になるんだね。以降モーツァルトを“聞き流す”ことは不可能になるわけで、日々困憊。まあ、その疲れがいかにも心地よく、結果、浄化されることはままあるが。
その上、モーツァルトの音と音の間の豊饒さに耳が吸いよせられ、これまで陰画(ネガ)だった無音部分が陽画(ポジ)に急転する瞬間 ― ああ、音のない部分を作曲しているよこの人は、てな具合に進行すれば、モ菌膏肓突入のモーツァルティアン。音符と音符の間を作曲できた音楽家は滅多にいない。
とはいえ、「死とはモーツァルトを聴けなくなること」といったのがアインシュタインだからさまになるが、凡モーツァルティアンが「生きるとはモーツァルトを聴くこと」などとのたもうたら、気色悪いうえに顰蹙かうこと甚だしい。相澤啓一「モーツァルティアンの罪業史」(『ユリイカ』臨時増刊、91)なる一文がものされる所以なり。
確かにモーツァルティアンの罪は、たとえばワグネリアンに比してもかなり重い。ヘーゲルやキルケゴールのモーツァルト論を小賢しく振りまわすくらいのはまだ可愛らしいけれど、どの分野でもカタログに恍惚としはじめると危険で、L.ケッヘル『モーツァルト全作品年代順主題目録〈第6版〉』(1862初版)をひもといて悦にいるなんてのは、きっと“鉄ちゃん”が時刻表の紙背に車窓の景色を透かすがごとき心持ちなんだろう。
ここはやはり真正モーツァルティアンのK.バルト『モーツァルト』(57)やH.ゲオン『モーツァルトとの散歩』(64)を味読して―否、否、「心虚しくしてその腹を実たす」(老子)。ひたすらその音楽にこそ聴きいるべし。
それでも最後に敬愛するピアニスト、E.フィッシャーの珠玉『音楽を愛する友へ』(58)の一節を示さなければ。彼は、“大仰な音楽”に魅惑される迷妄から醒めたとき、はじめてそこに超人モーツァルトが待っているといった。その姿は『老子』のパラドクスをもって表されている。
欲せんとすることなくして欲し 為さんとすることなくして為し
感ぜんとすることなくして感じ 小を大とし 少なきを多しとし 悪しきを善しとす
是をもって聖人は終に大を為さず 故に能く其の大を成す 2006年2月記
テーマ:クラシック - ジャンル:音楽
- 2008/02/20(水) 12:35:08|
- 拙稿
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